偏愛的山崎貴映画ガイド
- 導入
- ジュブナイル(2000.7)
- リターナー (2002.8)
- ALWAYS 三丁目の夕日(2005.11)
- ALWAYS 続・三丁目の夕日(2007.11)
- BALLAD 名もなき恋のうた(2009.9)
- SPACE BATTLESHIP ヤマト(2010.12)
- friends もののけ島のナキ(2011.12)
- ALWAYS 三丁目の夕日'64(2012.1)
- 永遠の0(2013.12)
- STAND BY ME ドラえもん(2014.8)
- 寄生獣(2014.11)
- 寄生獣 完結編(2015.4)
- 海賊とよばれた男(2016.12)
- DESTINY 鎌倉ものがたり(2017.12)
- アルキメデスの大戦(2019.7)
- ドラゴンクエスト ユア・ストーリー(2019.8)
- ルパン三世 THE FIRST(2019.12)
- STAND BY ME ドラえもん2 (2020.11)
- GHOSTBOOK おばけずかん(2022.7)
- ゴジラ -1.0 (2023.11)
導入
山崎貴監督の『ゴジラ-1.0』が大人気だ。
山崎貴といえばヒット作を手がける一方で、アンチがいたり、映画評論家からツッコミを受け続けるなど毀誉褒貶の半ばする監督。もっといえば邦画の負の側面を象徴しているような監督だった記憶がある。
私といえば初めて劇場で見た映画は『ジュブナイル』であり、その後『リターナー』を見るにつけ、またオリジナルのSF映画をとってほしい、いや、監督もそれを望んでいるはずだと思い込み、映画が叩かれるたび「これは監督の本意じゃないんだ」と言い聞かせていた。
今回の『ゴジラ-1.0』もそのパターンかと思っていた。しかし、庵野監督との対談記事で出た「これまでの山崎貴作品の総決算」という言葉が気になった。そういえば食わず嫌いしている作品がたくさんあった。この機会に全作品を見てから『ゴジラ-1.0』を観に行こうと。
そして全ての作品を観た結果、私がかつてもっていた山崎貴監督のイメージは覆り、同時に彼の才能や恐ろしさが見えてきた。
さながら映画『ゼイリブ』の主人公ナダがサングラスをかけることによって異星人による侵略に気づいたときのような戦慄だった。
確かに『ゴジラ-1.0』は彼の総決算であり、最高傑作と言えるだろう。
だが、長い文章を読むのが苦痛な人のために、先に結論を言おう。
『ゴジラ-1.0』はゴジラ映画ではあるが反戦映画などではない。現代の日本人に決起を促すプロバガンダ映画であり、なんなら今までのほぼ全ての山崎貴監督の映画はある共通の価値観のもとに作られている。
この記事では、通常の感想と、色眼鏡を通した感想、考察を書くことによって山崎貴監督の映画の真の姿を紹介したいと思う。
まず、それがどのようなものか端的に示す用語集をつくったので見てほしい。
男 | 主人公。序盤は勇気がないために苦悩するが、妻や子ができると覚醒して命をかけて闘うようになる。戦争経験者はチートキャラになりがち |
女 | ヒロイン。主人公の秘めた才能や大志に惹かれサポートする。結婚前はおてんばな性格で主人公を引っ張るが、結婚後はおしとやかになり、内助の功で主人公を助ける。なお、結婚後に働くと何かしらよくない目にあう |
アメリカ | 山崎貴映画で唯一いい国として描かれる国。戦前の因習に縛られた日本を啓蒙してくれた恩がある |
異形 | エイリアンやもののけ、怪獣等。外国人の象徴 |
金持ち | 基本的にいけ好かない奴として描かれる。幸せになるためには貧乏になる必要がある |
寄生獣 | 漫画寄生獣に登場する。山崎貴映画では外国人およびその価値観に洗脳された日本人を象徴する |
剣道 | 山崎貴映画において最強の格闘技。多分SAOのキリトがやってるやつと同じ。 |
原爆 | 日本を啓蒙するために必要だったもの |
戦前 | 因習に捕らわれた負の時代。しかしそこに生きる民衆の精神性は美化されている |
ロボット | 知能があってもせいぜいペット的な何かにおさまる。恋愛の舞台装置 |
共産主義 | 敵 |
中国 | 敵 |
異文化交流 | 日本の価値観に外国人が同化すること |
昭和 | 日本の黄金期。 |
貧乏 | 美徳 |
チベット | 中国の侵略の被害者。なぜか歴史を改変してでも助けるべき場所とされている |
勇気 | ほぼ全ての作品に共通して描かれるテーマ。妻子を守るために男が命をかけて何かをすること |
センシティブな内容を含んでいて、この内容について嫌悪感を抱く人も内心同意する人もいると思う。実のところ山崎貴監督の映画にハマるか批判側に回るかはこの価値観に合うかどうかということが大きく影響すると私は予測している。この文章の意義はこの表の内容を証明することである。
ジュブナイル(2000.7)
あらすじ
2000年の夏休み、祐介、岬、秀隆、俊也の4人は未来から来た高性能ロボット「テトラ」と出会う。祐介たちの持ってくる廃材で自分を改造し、完成形に近づいていくテトラ。一方で地球から海を奪おうとする宇宙人・ボイド人の侵略が密かに進行しており、岬が囚われてしまう。岬を助けるために祐介はテトラが完成させた戦闘用ロボット「ガンゲリオン」に乗り込み岬を助けに向かうのだった。
通常の感想
原作はドラえもんの同人誌(壊れたドラえもんを修理するためにのび太がロボット研究者になるという有名なやつ)。
原作とは言いつつも、言われなければそれと気づかないくらい改変されていてオリジナル要素がうまくハマっている。
テトラの球体の形で現在にやってきてだんだん完成形に近づいていくというのはドラえもんにはない要素だ。
ひろった動物を親にないしょで育てるようなこの感じはまさに少年時代。
そんなテトラは中盤ではロボット研究所に乗り込み、トラックごと資材をパクっていくという無法っぷりを披露する。裕介たちは未来ではちゃんと材料費を払ったと信じたい。
しかし、線路を歩いたり廃材置き場で犬に追われたりと『stand by me』をやたらこするのは今見るとやりすぎというか、そんな思い出はさすがにない。
また、ドラえもんと比べると恋愛に比重が置かれているのも特徴だ。主人公の祐介(のび太)が岬(しずかちゃん)への好意が描かれるのはもちろんだが、秀隆(ジャイアン)も岬に恋心をもっており祐介は身をひいてしまうという描写が見ていてほほえましい。
しかもそれが終盤の祐介が岬を助けにいくシーンでのカタルシスにつながっていて気持ちがいい。
子供らしい恋心の機微をとらえて映像に落とし込むのがうまいというのは山崎監督の長所だ。
色眼鏡を通した感想
全作品見た後にふりかえって思うのは、このころから山崎作品共通の主人公像、ヒロイン像、そして勇気というものがかたまっているということだ。
その勇気とは、愛する人のために自分の命を懸けることだ。
リターナー (2002.8)
あらすじ
2084年の地球は「ダグラ」と呼ばれる宇宙人に侵略されており、人類は絶滅の危機にさらされていた。過去に遡って侵略のきっかけになった出来事を変えようとレジスタンスの少女ミリがやって来る。偶然出会った正義の仕事人・ミヤモトとともに、宇宙人の技術を悪用しようと画策するマフィア溝口と戦う。
当時のインタビュー http://fjmovie.la.coocan.jp/interview/2003/yz/index.htm
通常の感想
和製E.T+タイムスリップ物にマフィア要素を少々
要素を詰め込みすぎのような気がするが、ミリを演じる鈴木杏の演技力の高さによって感動できるいい映画に仕上がっている。久しぶりに観ても感動した。
ミリがスパゲティを食べるシーンと別れのシーンは全作品を見返す中で私が唯一泣いたシーンだった。
色眼鏡を通した感想
昔は見た時は気づかなかった政治的要素が気にかかった。
ダグラはチベット語で敵の意だということだが1950年からチベットは中国の統治下にある。
未来の世界でのレジスタンスは英語を話し、攻めてくるダグラと抗戦する。
ここで私は山崎貴監督はSFを書くことによって中国をはじめとする外国の脅威を描こうとしているのではないかという考えが浮かんできた。
ALWAYS 三丁目の夕日(2005.11)
昭和33年東京の下町、夕日町三丁目にある鈴木オート、茶川商店等の店を中心に様々な昭和の人間模様を描いた作品。
感想
後に山崎貴監督の代表作となるALWAYS 三丁目の夕日シリーズの一作目。
駄菓子屋兼小説家の茶川竜之介を演じる吉岡秀隆は『ジュブナイル』でも主人公の祐介の成長した姿を演じていて、この後も山崎貴作品に出演しまくる。監督の分身のような役所が多いような気がする。
ALWAYS 続・三丁目の夕日(2007.11)
鈴木家に親戚の女の子・美加が預けられることになった。父親が事業に失敗し、出稼ぎに行くのだ。しかし、お嬢様育ちの美加はなかなか鈴木一家や夕日町の人々になじめないでいた。
一方駄菓子屋の茶川は、黙って去って行ったヒロミを想い続けながら淳之介と暮らしていた。淳之介の実の父、川渕との約束で人並みの暮らしをさせられる証しを必ず見せると芥川賞へ挑戦する。
感想
1作目でやり残したことを回収したという感じ。
個人的にはハイモチベーションでなんとかなるという世界観は好きじゃないんだよなあ。
色眼鏡を通した感想
山崎貴にとって昭和は黄金時代だ。
『ゴジラ-1.0』で舞台に昭和を選ぶくらいなので、山崎貴この時代が好きなのはこと周知の事実だろう。
ではなぜ昭和が好きなのか。その答えがALWAYS 三丁目の夕日シリーズに現れている。
男は大きな夢をもち、戦場帰りの「勇気」 を平和的で正しい方向に向ける。
女は夢と「勇気」の素質をもつ男を見出し、内助の功でサポートし幸せになる。
演技がオーバーで漫画的という批判があるがこれは意図的な部分があると思う。鈴木オートの家庭内暴力やヒロミの仕事などリアルに描こうとすると輝かしい昭和というイメージに陰りが生じるということを懸念してこのようにしているとしたら?
山崎貴はそれができて、それをやる人間だ。
BALLAD 名もなき恋のうた(2009.9)
あらすじ
小学生の川上真一は、ガールフレンドへのいじめを止めさせることができない自己嫌悪から、近所の大きなクヌギの木に「勇気をください」という願をかける。すると戦国時代の天正2年にタイムスリップしてしまう。そこで井尻又兵衛という一人の侍と出会う。
偶然命を救ったことにより、真一と又兵衛は一緒に過ごすことになり、徐々に絆を深めていく。
又兵衛は主君の娘・廉姫を愛していたが、廉姫の美しさに目をとめた強国の主、大倉井高虎が婚儀を申し入れてくる。
そんな中、行方知らずとなった息子を探していた真一の両親である美佐子と暁も、大きなクヌギの木の下で見付けた真一の手紙をきっかけに又兵衛のいる時代へとタイムスリップしてくる。
真一の両親から春日の国が未来には残っていないことを聞いた廉姫の父は、娘を尊重し、高虎と戦うことを決意する。
感想
原作を見ているならわざわざ見なくても、という感想。
合戦のシーンなどに力を入れているのは伝わってくる。原作の特徴的なシーンを再現しようという意欲は評価したい。が、ノロノロと合戦城を走る車とそれにビビる高虎軍、ラストの「ありがとう」の石碑は拙い出来だと思う。あと又兵衛だけ刀を反対向きで帯刀してない?気のせい?
色眼鏡を通した感想
映画の最後で新一少年は又兵衛からもらった「勇気」を胸に学校への坂道を駆け下りて映画は終わる。この映画も「勇気」を主題にした映画だ。
監督は自身の使命として「時代の被害者として散っていった人々の姿を描くことで現代の日本人に勇気と愛国心を取り戻させること」を据えているのだろう。
ひろしが写真家に改変されている理由は、監督の分身として、合戦に赴く侍たちの姿を記録する人物を置きたかったからだろう。
又兵衛が原作のような強面で屈強な侍ではなく草彅剛になっているのも特攻で散っていった繊細な青年というイメージを持っていたからなのでは。
この映画はクレヨンしんちゃんの映画の実写化なのではなく、永遠の0のプロトタイプとして観るべきなのではないかというのが私の意見だ。
SPACE BATTLESHIP ヤマト(2010.12)
あらすじ
西暦2199年、地球は謎の異星人ガミラスの攻撃で滅亡の危機に瀕していた。ガミラスの遊星爆弾による攻撃で海は干上がり、地球上の生物の大半は死滅した。
ある日、地球上に謎のメッセージカプセルが落下し、付近にいたサルベージ業者・古代進によって発見された。そこに記されていたのは、波動エンジンの設計図とイスカンダルの正確な座標であった。地球防衛軍は、「カプセルの送り主には、地球を救う放射能除去装置を渡す意思がある」と公表し、その情報を基に最後の地球脱出用船宇宙戦艦ヤマトを改造し、イスカンダルへの派遣を決定した。
感想
この船乗りたくねー、の一言に尽きる。
宇宙から来た謎技術をテストもせずに積んだ船。乗組員も癖が強く、キムタクを中心にして吹き荒れる謎の体育会系ノリと「今それしてる場合!?」となるラブロマンス。あと、命が軽い。最終局面で亡くなった仲間たちの幻影がコックピットに現れるシーンがあるが、絶対もっと死んでる。コックピッド一杯になるくらい死んでる。あと沖田艦長はチベットスナギツネに似てる。
色眼鏡を通した感想
『リターナー』のときのインタビューからわかるように山崎貴はキャスティングに対して集客力や世間からのイメージを考慮するタイプである。だとすれば、キムタクがキムタクとして動くこの映画の真の意図は、キムタクがキムタクとして非情な選択や特攻をする姿を描きたかったのではないか。つまり、カッコいい男の代表であるキムタクによって「勇気」という美徳を普及しようという意図がある。
他にもイデオロギーが反映されていると思われる要素がある。
ガミラス星人の設定の改変、個々の意思がなく統一された意識がある。一方で「我々は受けた屈辱は忘れない」という執念深さ。これは尺を抑えるためにストーリー複雑さを軽減する策と解釈されているが、リターナーでの中国の扱いなどを考慮すると共産主義のメタファーに思える。
friends もののけ島のナキ(2011.12)
あらすじ
もののけ島に一人の人間の赤ん坊・コタケが迷い込んでしまう。赤鬼のナキと青鬼のグンジョーは、コタケの面倒を見ることに。最初はケンカしてばかりだったナキとコタケだったが、かけがえのない友達になっていく。しかし、母親が恋しいだろうと、ナキはコタケをそっと人間の村に送り届ける。しばらくしてまたコタケに会いたくなったナキは、人間の村へ訪れるのだが、もののけ退治に雇われたサムライたちに襲われ怪我をしてしまう。
グンジョーは、ナキと人間の仲を良くするために、恐ろしい姿に変身するキノコを食べ村を襲う決意をする。
感想
赤鬼のナキ、なんか既視感あるなと思ったら、実写版こち亀の両さんだわ。
泣いた赤鬼を原作にして、現代的に、こどもが飽きないような映画に仕上がっているように思えるが、ナキが人間と仲良くなりたいと思うきっかけになる人間・コタケの行動が邪悪すぎる。放火したり、ナキがとっておいた貴重なキノコを食ったり。「子供のすることだから」とグンジョウに言われて許すばかりか、これに愛着をもつナキはドMか何か?
色眼鏡を通した感想
山崎貴の真骨頂はその改変にある。それを紐解いていくと、山崎史観もつ、私にとって受け入れがたいメッセージが浮かんできたので、誰かこの誤解を解いてほしい。
山崎史観とは戦後、昭和あたりが日本の黄金期で、戦時中の日本人は上層部のイカれた判断によって苦しむ被害者であるという史観。その史観においてある出来事をどう評価するのかという疑問の答えがこの映画で示されている気がする。
改変・追加箇所
鬼が住んでいるのは山奥でなく島
原作の鬼という言葉をもののけに改変している
キノコが重要な要素として登場する
村人が因習に囚われる姿が滑稽に描かれる
人間が先に鬼を襲ったという過去
ゴーヤをモデルにしたやたら不憫なキャラ
原作にはいなかった用心棒3人組という噛ませキャラ
なぜ島なのか、なぜ鬼という用語を使うのを避けるのかということを考えると、海の向こうにありかつて日本人が鬼畜と呼んだアメリカが浮かんでくる。
そして因習に囚われ海を渡った先を過剰に恐れる村人、飢えた母を助けるため無謀にも資源を求め略奪を試みるコタケの兄の行動は第二次世界大戦期の日本を思わせる。
となれば、かつて人間が鬼を襲ったという過去は植民地政策や真珠湾のことだろう。
村に雇われた用心棒は村を守ると言いつつ襲ってきたグンジョウに恐れをなし、村人を見捨てて早々に撤退するサムライについて、
メガネを掛けた小柄な1人は昭和天皇に似ていないだろうか。もう一人はスキンヘッドで眉毛が太い男でムッソリーニを意識しているのか。用心棒のボスはどこか日本人離れした顔で何人っぽいかと聞かれれば私はドイツ人っぽい顔だと答える。もしかするとチョビ髭の小柄な男にしたかったがあからさますぎてやめたのかもしれない。
要するにこの映画におけるサムライという存在は枢軸国のメタファーなのではないか。
アメリカと枢軸国、そしてキノコというキーワードである出来事が思い浮かぶ。原爆投下だ。
この映画は泣いた赤鬼を下敷きにしつつ、原爆投下を正当化するという裏のテーマがあったというのが私の考えだ。
この解釈でもののけサイドに登場(つまり外国扱い)するゴーヤは何を意味する?
ゴーヤはどこの特産品だ?暴力を振るわれ、家を壊されることがギャグとして成立させられているこのキャラが沖縄の象徴だとすればさすがにひどいと言わざるをえない。ちなみにcvは阿部サダヲだ。このことは後々に効いてくるので覚えておいてほしい。
ALWAYS 三丁目の夕日'64(2012.1)
あらすじ
前作から5年経った1964年(昭和39年)夫婦となった茶川とヒロミ。そして高校1年生になった淳之介は仲良く3人で暮らしていた。茶川は『冒険少年ブック』で連載を続けるも、新人作家の緑沼に人気を奪われ大ピンチ。
一方で、向かいの「鈴木オート」一人息子・一平は思春期に入りエレキギターに明け暮れる毎日。住み込みで働く六子は、医師・菊池と出会い、惹かれていく。
感想
茶川先生、そこまで少年向けの小説に心血注いでましたっけ。
緑沼に人気を奪われ大ピンチ、じゃなくて、また純文学書けばいいのでは?
どんな純文学がいいかって?
小説家になることに反対していた父の葬式に行ったら自分の書いた小説が全部あって、実は応援してくれていたことがわかる話、とか書けばいいんじゃないですかね。
この世界なら人気でるでしょ。
考察
「俺たちの輝かしい昭和が時代の流れによって壊される、と思ったが気のせいだったぜ」
という映画。
少年向け小説を書いて生計を立てる茶川先生を脅かす緑川が書いた小説の名前が「ビールス」
まさに昭和を脅かすウイルスのような要素がこの映画の序盤で展開される。
一平がハマるロックンロール、嫁入り前の六子を銀座などという怪しい場所に連れ出す医師、菊池。なお、銀座は後に『ゴジラ-1.0』で蹂躙されることになることから、監督はやはり銀座が嫌いらしい。
しかし蓋を開けてみれば、緑川の正体は茶川先生に憧れた淳之介だし、一平もギターをやめ家業を発展させる夢をもつようになるし、菊池は昭和の伝統を重んじて婚前交渉はしないし、両親どころか、鈴木商店の面々にまで結婚の許可を求める異様なほどの好青年だった。
結局のところこの映画は、昭和の伝統は形を変えるがソウルは受け継がれていくという理想を語っている。
実際はそんなことなかったわけだが。エンドロールで空を見上げる登場人物たち、本当は見下ろす演出にしたかったのではないか。この映画を観る人たちはこの美しい昭和を受け継いでいるだろうかという無言の問いかけだ。
永遠の0(2013.12)
あらすじ
司法試験浪人の佐伯健太郎と、出版社に勤める姉の慶子は、終戦間際に特攻で戦死した実の祖父宮部久蔵について取材する。宮部久蔵を非難する者もいれば、感謝を述べる者もおり、その人物像は謎に包まれていた。
取材するにつれて、久蔵の人柄がわかっていく。卑怯者と誹られても「娘に会うまでは死なない」と妻との約束を守り続けていた久蔵は、冷静な戦況分析と巧みな操縦技術で自他の命を守っていたのだった。
しかし、悪化し続ける戦況と軍上層部の人命軽視な命令によって同胞が次々散っていく現状は久蔵の精神を蝕んでいった。
感想
よくできた映画で、好きなんだが、自分とは価値観が合わない映画なので、泣いたかと言われると、「この映画向いてないんです。すみません」と言うしかない。
死ぬほど追い詰められたら、なりふりかまわず逃げてもいいだろと思う人間なもんで。
特攻で散っていった人を愚かだと思う気持ちは一切ない。むしろ、家族や国のために命をかけたという事実だけで畏敬の念をもって余りある。
でもなぁ、この話を現在に置き換えると
人命を軽視するレベルのブラック企業で働いてる人が、会社の問題点がわかっていながら辞めることができず、同僚をかばったりしながら最終的に病んで過労死する話だろ?
もっと何かできることがあったんじゃないかと、考えるのに集中して、涙を流す余裕がない。
色眼鏡を通した感想
岡田斗司夫の『永遠の0』評にもある通り、原作にはないこの映画のオリジナリティはラストシーンでの久蔵の意味深な笑みにある。
岡田斗司夫はそれを家族のために生きようとする人間としての久蔵があの瞬間、解き放たれて、男として戦って勝ちたいという気持ちが現れたのがあの笑みだと解釈している。
私の解釈は違う。宮部久蔵は特攻で亡くなったが薫陶を受けた人々を通して、家族を守ることができた。それはさながら憑依だ。あの笑みは第四の壁を通して観客に取り憑こうとする、あるいはそれが成功したことへの快哉の笑みに思える。
あと気になることがもう一点。
飛行機を撃墜されたり戦艦を沈められたりしているので、当然、この映画の中でも死んだ米兵がいるはずなのだが、その描写がない。日本側の人物の死は臨場感をもって描かれているというのに。ラストシーンでもその後来るはずの爆発シーンは存在しない。
山崎貴にとっては日本人がアメリカ人を殺したという事実は不都合なため、せめてもの抵抗だったのではないだろうか。
STAND BY ME ドラえもん(2014.8)
あらすじ
何をやってもうまくいかない少年、のび太の前に、22世紀から来たのび太の孫の孫セワシと、ネコ型ロボット・ドラえもんが現れる。
のび太の悲惨な未来を変えるため、ドラえもんをお世話係として置いていくという。
嫌がるドラえもんに、セワシは「成し遂げプログラム」をセットする。
のび太を幸せにしない限り、22世紀に帰れなくなってしまったどらえもんは、ひみつ道具を使ってのび太を幸せにしようと奮闘する。
感想
しずかちゃんとのび太の結婚が決まってからセワシが登場しなくなる。
原作にあった、未来が変わってもセワシは生まれてくるという説明がなかったことから考えるに、手の込んだ自殺だったのではないか。
あるいはドラえもんが実はセワシを憎んでいて、セワシが想定していない過去改変をして存在を抹消するという復讐ドラマだったのかもしれない。命令に逆らうと電流が流れる、成し遂げプログラムなんてものを仕掛けるような関係性なら仕方ないとも思える。
色眼鏡を通した感想
ドラえもんという題材を使ってやりたかったことをジュブナイルでやってしまったが故の監督の苦悩が感じられる。
伝えたいメッセージは変わらず「勇気」なのだが、この映画のつらい所はのび太が「勇気」を発揮する場面がほとんど自業自得どころか、他人を巻き込んでピンチになるという状況なのだ。マッチポンプである。しかし、「勇気」を発揮することこそが大切なのであり、そこに到る原因など問題ではないという山崎貴監督の価値観が現れているのかもしれない。
寄生獣(2014.11)
人間を捕食する謎の寄生生物「パラサイト」が出現。高校生の泉新一にもパラサイトが近づくが寄生に失敗し、やむなく新一の右腕に寄生する。パラサイトに“ミギー”と名づけ、奇妙な共生生活を送り始めた新一は、パラサイトとの戦いに身を投じていく。
感想
犬捨てるの早っ!
あと新一くんこんなに好戦的でしたっけ?
色眼鏡を通した感想
これまでの映画において
戦後復興期を黄金時代として描くことで、あるべき家庭の姿を示し、
時代や国家に翻弄されつつも家族を守るために戦った人々を描くことで、「勇気」や愛国心を取り戻すように観客に訴えてきた山崎貴監督。
では愛国心を取り戻した日本国民はどうすればいいのかという疑問が浮かぶが、そのアンサーがこの寄生獣で示されている。
例のごとく改変された要素からこの映画に隠されたメッセージを解き明かしていこう。
改変ポイント
パラサイトが空でなく海からやってくる
父親がいない
戦闘訓練
中華料理店で最初の戦闘
授業内容EUの説明と寄生獣たちのネットワーク
田宮良子には命令が来ていない?
ミギーの声優が阿部サダヲ(ナキでのゴーヤとcvが同じ)
寄生獣は『リターナー』の時点で山崎貴が作りたいと言っていた作品だ。
理由は「敵のアイデアがいいし、それに話もいい」とのことなのだが、パラサイトという存在に山崎貴は何を見たのか。
私から見た『寄生獣』は、人間にとって変われる種が生まれたとしたらどうなるかという問いを通して、人間の業、あるいは素晴らしさを描いた人間讃歌の傑作だ。そして、その上でどの思想や立場が正しいと言い切ることができない複雑さをあえて残しているところが不朽の名作である理由だと思う。
一方、山崎貴はパラサイトは外国人、そして外国の価値観に染まって日本を害する日本人のメタファーであると解釈したようだ。
この映画ではパラサイトは海からやってくる。そして港から流通網に乗って運ばれていく。まるでヒアリやトコジラミのように。あるいは鎖国していた日本が開国して外国人が入ってくるイメージなのだろうか。
ではミギーとはなんなのか?沖縄だ。
ミギーの声について原作を読んだことのある友人何人かに聞いてみたところ、そのほとんどが高い声のイメージだと答えた。
声の違和感は観ていくうちに薄れていくが、そもそもなぜ阿部サダヲなのか。
映画公開時のインタビューでは、原作者の岩明均先生に「ユーモアを大事にしてください」と言われ、ナキで仕事を一緒にしてそのユーモアを認めた阿部サダヲを起用したとのことだ。
真の意図は違うと思う。この映画単体で見ていてはわからないが、先ほどのナキの分析が正しいのならば、阿部サダヲ演じるゴーヤは沖縄の象徴であり、その繋がりをもってミギーが沖縄であることを示唆しようという意図があったのではないか。
だとすると、新一は沖縄にある武力を活用し、日本を侵略する国や洗脳された日本人を倒すヒーローとして描かれているのではないか。
その証拠に、原作では新一たちの最初の戦闘は犬に寄生してしまったパラサイトだったが、この映画では中華料理屋に成り変わったパラサイトと戦う。中華料理屋曰く「ここにいれば勝手に餌(人間)が入ってくるからな」だそうだ。山崎貴は中国料理が嫌いなのか。それとも・・・。
パラサイトの中にも比較的話が通じるヤツもいる。田宮良子だ。山崎貴監督は田宮良子をアメリカの象徴として見ているようだ。
その証拠に原作からの大きな改変として田宮良子が「私が人間の脳を奪ったとき一つの「命令」がきたぞ・・・”この種を食い殺せ”だ!」というセリフがカットされている。
さらにはやたら寄生獣どうしのネットワークの重要性を強調し、原作以上に脳が残ったままの新一を特別扱いする。
これは日本に戦争で勝ちながらもアメリカに併合することなく日本の文化、つまり脳を残したアメリカの寓意なのだろう。
これに関連して、ミギーが剣道や弓道などの部活を見て戦闘訓練だと解釈し、その後の戦闘に役立てるのもGHQに許された日本の伝統であるという経緯が関係していると思われる。
アメリカが大好き。それが山崎貴監督。
他に大きな改変として新一家の家族構成がある。父親がおらず、母は働きながら新一を育てる。
そして働いているが故に、偶然手負いのパラサイト、Aに近づき乗り移られてしまう。
監督にとってシングルマザーという存在は良くないものであり、既に日本的ではない価値観に染まったパラサイトだったということだろうか。
また、原作では新一に代わって母親にとどめを刺した宇田さんとジョーは存在ごと消えている。
とどめを刺した宇田さんのセリフ「こいつはもちろんきみのおかあさんじゃない。でもやっぱりきみがやっちゃいけない気がする」は新一の人間性を守るブレーキのような存在であったと思う。それがなく、さらには母親の身体が殺されることを望むように動くなどブレーキをあえてぶっ壊したような展開だ。
要するにこの映画は
「大和魂を取り戻した若者よ!隣人に紛れた侵略者たちを殺そう!そのための武力は沖縄にある!」というメッセージを伝えている。ヤバい。
寄生獣 完結編(2015.4)
右手に寄生生物ミギーを宿す高校生・泉新一は、要注意人物として人間からもパラサイトからもマークされていた。いまや、新一の住む東福山市は、市長・広川を中心に組織化されたパラサイト達が、一大ネットワークを作り上げていた。一方、人間側も、寄生生物殲滅を目的とした対パラサイト特殊部隊を結成。アジトと化した東福山市庁舎に奇襲を仕掛けようとしていた。激化する戦い・・・。人間の子を産み、人間との共存を模索するパラサイト田宮良子は、新一とミギーの存在に可能性を見出したが、肝心の新一は、母親を殺された事件がきっかけで寄生生物への憎悪を募らせていた。そんな彼らの前に、最強パラサイト・後藤が、その姿を現した。 生き残るのは人間かパラサイトか。 そして「寄生獣」とはいったい何なのか。 新一とミギー、最後の戦いがついに始まる。
当時のインタビュー記事
https://mantan-web.jp/article/20141216dog00m200002000c.html
感想
なんか違うんだよなぁ。
原作にはないオリジナル設定や改変がたくさんあるのに原作ファンからのツッコミをネットでほとんど見かけないところが逆にこの映画のヤバさを物語っている気がする。
色眼鏡を通した感想
この映画は山崎貴の見果てぬ夢だ。日本が世界の覇権を握るという夢が描かれている。
原作で最強の敵として立ちはだかった後藤。この映画での後藤は何の象徴なのか。
共産主義である。
「人間との共存を目指すなら彼らは希望だ」とまで言い放つ田宮良子に対して
「希望をつぶす」と言い放ち、田宮良子の代わりに「”この種を食い殺せ”」のセリフを言う。
分かりやすくアメリカと対立する共産国家のようだ。
さらに、これも他の映画の知識が必要なのだが、
後藤の右手であるところの三木がヤクザの事務所を襲うシーンで、原作では名前が出ていない、組の名前が出ており「溝口総業」とある。
溝口とは『リターナー』に登場するヤクザの名前でチャイニーズマフィアを裏切ったという経緯がある。これは中国から溝口への映画を超えた復讐であると言えよう。つまり三木は中国の象徴であり、後藤はその上にある。つまりロシアであろう。
後藤は自分たちが人間に望まれて生まれてきたという。これも労働者階級のためにあると、お題目を掲げる共産主義と重ね合わされている。
それに対して新一は「お前を殺さないと家族を守れない」と語り、殺す。
これが山崎貴の共産主義へのスタンスなのだろう。
最後に後藤を倒すとき、原作ではダイオキシンのついた棒だったが映画では放射能汚染された棒になっている。その意味は・・・まぁ・・・うん。現在のところ日本は核保有国ではないとだけ言っておこう。
個人的に許せない改変がある。
原作の最後のミギーのセリフ
「道で出会って知り合いになった生き物がふと見ると死んでいた。そんな時なんで悲しくなるんだろう」に対して
「そりゃ人間がそれだけヒマな動物だからさ。だがなそれこそが人間の最大の取り柄なんだ。心に余裕(ヒマ)がある生物、なんとすばらしい!!だからなあ・・・・・・いつまでもメソメソしてるんじゃない。疲れるから自分で持ちな」
があるのだが、それが
「それは人間が違う種の苦しみを感じ取ることができる生き物だからさ。自分と違う生き物と寄り添って生きていける。それは人間がもつ愛おしい特性だ。時に思わず手を貸してしまうほどにな。だからなあ・・・・・・いつまでもメソメソしてるんじゃない。疲れるから自分で持ちな」
になっている。この改変は原作理解の杜撰さ、あえてやっているなら悪質さが全面に出ている。
なぜなら原作には
「違う生き物どうし時に利用しあい、時に殺しあう。でも理解りあうことは無理だ。いや、相手を自分という「種」の物差しで把握した気になっちゃだめなんだ。他の生き物の気持ちをわかった気になるのは人間のうぬぼれだと思う」
とあるからだ。真逆では?
さらに言えば、原作の「人間がそれだけヒマな動物だからさ」という言葉こそ、岩明先生がこの作品の最後の最後に見出した真理だと私は思う。それを体現する存在であったキヨエばあさんも例のごとく存在が消されている。
ヒマ、つまり余裕があるからこそ、他者への共感ができるようになったり、生まれた意味などを考えることができる。それが結果的に人類の生存に有利に働いたという拍子抜けするような真理。深い。
少し脱線したがまとめると、この映画は「アメリカの代わりに世界の覇権を握って、共産主義をぶっ倒そうぜ!」というメッセージをもっている。
海賊とよばれた男(2016.12)
あらすじ
敗戦後誰もが途方に暮れる中、国岡商店の店主である国岡鐡造は、全社員を解雇せずに再建に挑む決意を示す。
社員たちは新たな仕事を模索し、ラジオ修理から石油販売まで様々な取り組みを行う。
国岡商店はGHQの過酷な仕事を引き受け、石油販売業者として再出発する。
次々と苦難を乗り越え、外国資本によらない「民族系」石油元売として順調に事業を拡大していた国岡商店だが石油メジャーの妨害により、石油輸入が困難になった。
状況を打破するため、鐡造はアーバーダーン危機の渦中にあるイランへ石油タンカー日章丸を派遣することを決心する。
感想
油もってきたでぇー。
國村隼演じるツンデレキャラ、日邦石油の鳥川と国岡鐡造のBL的関係性に萌える。
それはそれとして、沈められるかも知れんタンカーを派遣するなら鐡造社長も乗るべきでは?
色眼鏡を通した感想
戦争経験者の「勇気」がいい方向に向かうとこうなるという映画。
三丁目の夕日と同じ方向性である。やはり思想の方向性が合っているので百田尚樹と山崎貴はゴールデンコンビと言えよう。石油が重要だというのはわかるが、石油を調達する手段として弾圧されている産油国を救うために命をかけるというのはいかがなものか。それって大日本帝国の言ってたお題目とどう違うので?
DESTINY 鎌倉ものがたり(2017.12)
あらすじ
幽霊や妖怪といった人ならざるものと人間が共に暮らす街・鎌倉。そこに住むミステリー作家・一色正和のもとに、亜紀子が嫁いでくる。正和は本業の作家の他に、人ならざるものが関与した難事件を警察と協力し解決へと導く名探偵でもあった。そんなある日、亜紀子は不慮の事故により黄泉の国へと旅立ってしまう。正和は亜紀子を取り戻すべく、黄泉の国へと向かうのだった。
感想
男が女を幸せにするもの、貧乏は美徳というメッセージに完全には同意できないが、「そういう価値観で生きる人たちもいる」という線引きというか切り替えをして観ればまあ観れるというか真っ当に面白いのではないか。ちょっとチープさがある人外のデザインも味があって私は好き。
色眼鏡を通した感想
原作では一応、鎌倉に幽霊や妖怪がいる理由が説明されているのだが、この映画ではほとんど説明がない。
山崎貴作品を見慣れると鎌倉は外国人観光客が多く、幽霊や妖怪がそのメタファーであることに疑いがなくなってくる。
この作品でのラスボス的存在である天頭鬼は亜希子夫人に前世から横恋慕しており、策略を巡らせ自分の物にしようとする。
天の頭を名乗りながらも神になれない存在、どこか中華っぽさを感じるキャラデザ。やはり中国の象徴であろう。そんな天頭鬼と剣道で戦う。その剣道への厚い信頼は何なんだ。
アルキメデスの大戦(2019.7)
あらすじ
1933年、山本五十六を始めとする巨大戦艦不要派は、戦艦大和の建造計画案を廃案にするため、数学の天才・櫂 直に建造計画の予算見積もりの不正を暴くよう依頼する。
様々な妨害を受けながらも、部下になった田中正二郎、尾崎財閥の令嬢、尾崎鏡子の助けを借りて建造計画案の撤回に成功する櫂。
しかし、大和の設計者である平山忠道技術中将に大和建造の真意を聞かされた櫂は建造に協力することに。建設された大和を眺め、櫂は涙を流すのであった。
感想
原作から主人公のキャラクターが改変されていて、好感がもてるキャラになっていた。
部下の田中正二郎が最初は櫂の変人っぷりに戸惑いながらも、徐々に尊敬していく展開や尾崎鏡子が資料集めに手を貸してくれるエピソードなども追加され、原作の、淡々と進むドラゴン桜的な物語と対照的な、良い意味で泥臭い物語に仕上がっていると思う。
その分、あのエンディングは残念だった。沈むことが分かってる船に人乗せようとすんな。百歩譲って、救命ボートめっちゃ積むなり、比較的マシな沈み方するように細工するなり、ちょっとでも人が助かるようにしといてやれ、天才様ならできるだろ。
色眼鏡を通した感想
ライムスター宇多丸師匠の作品評にもあったように冒頭の大和が沈むシーンで見える雲がキノコ雲に似ていて原爆を想起させる。
原作にはなかった、国民に負けを認めさせ、それ以上の犠牲を出さないための犠牲として戦艦大和を建造するという話はそのまま原爆の投下を肯定する価値観につながっている。
もののけ島を観た後だと驚くほどのものではない。
あと冒頭のアメリカ人のシーン、人的資源を大切にすることが勝敗を分けたとい宇多丸師匠の考察が合っているかもしれないが、『永遠の0』での描き方を見てもアメリカ人が死んでないことにしたいだけではと思えてしまうなぁ。
ドラゴンクエスト ユア・ストーリー(2019.8)
あらすじ
ほとんどドラゴンクエストⅤのあらすじ通り進むが、終盤でこの物語はゲームそのものではなく、幼い頃にこのゲームに熱中した主人公が、最新のVR体験作品として見ているものだとわかる。
コンピュータウイルスが侵入したことによってゲームが進行不可能になりかけ、「これはただのゲームだ」「大人になれ」とウイルスに煽られるが、仲間モンスターのスラりんが、実はアンチウイルスプログラムであると正体を打ち明ける。主人公はスラりんから受け取ったロトの剣でウイルスを退治する。すると世界が元に戻り、ラスボスを倒したことになっている主人公は、その栄誉を讃えられながら、「僕は、勇者だったんだ」とつぶやくのであった。
感想
ドラクエⅤをプレイしたことがないせいかまぁ、普通に見ていられた。
忠実な映画化を望んだファンの皆様の心境は計り知れないとは思う。
あと、アンチウイルスソフトが入ってるなら、普通に動くか進行不能になるかのどっちかなのではないか。
本来のラスボスではなくウイルスと闘うことことがデフォのアトラクションとすれば辻褄は合う気がするが、そんなアトラクションがあったとすればこの映画が炎上したのと同じ理由で炎上しそうだ。
色眼鏡を通した感想
エンディングについて、主人公が外国人だとノれない山崎貴監督なりの折り合いの付け方だったのではないかと思われる。
今までの作品のヒロインを見ていれば監督がビアンカ派なのを推測するのは難しくない。
ビアンカは勝気で主人公をひっぱっていくタイプのようで、一方のフローラは金持ちなので山崎貴映画では幸せになれないのである。
ゲームと現実の違いはあれど、妻と子供のために命を張れといういつものパターンの映画と思われる。
ちなみに不可解な改変要素として、過去を改変するイベントのために訪れる場所が「チゾット」なっているというのがある。これはおそらく過去改変をテーマにした過去作『リターナー』を意識してのことだと思うのだがどうだろう。
ルパン三世 THE FIRST(2019.12)
あらすじ
『カリオストロの城』のクラリスを考古学者にしてカリオストロ伯爵をネオナチにして映像を3DCGにするとこの映画になる。
感想
やらされている感が出ている。カリオストロの城のリメイクっぽいが元ネタには勝てていない。
色眼鏡を通した感想
山崎貴監督は主人公が外国人なおかつ、浮気性ともなればノることができない。
故にこうなったのではないかと。
唯一イデオロギーが示されていると思われる場所を挙げると
終盤の遺跡で、先に進むために斬鉄剣を置いていかなければいけなくなった五右衛門のエピソード。手放したせいで敵にいいようにされ後悔する。
五右衛門なら斬鉄剣を置いていくくらいならその場から動かなそうなイメージがあるので改変要素と言えるのではないか、戦力を手放した日本の象徴だと思う。
その後斬鉄剣をひろってウキウキで戦う五右衛門を描くことで、日本が武力をもてるようになるようにという山崎貴の願いが表現されている。
STAND BY ME ドラえもん2 (2020.11)
あらすじ
誕生日にママに叱られたのび太は、テストの答案を天井裏に隠そうとして今は亡きおばあちゃんがよく直してくれたぬいぐるみを発見する。
おばあちゃんを懐かしむあまりにのび太は、ドラえもんと共におばあちゃんが生きていた時代へ向かう。小学生になったのび太を少しも疑わず受け入れるおばあちゃん。そして、「のびちゃんのお嫁さんに会いたい」というおばあちゃんにしずかとの結婚式を見せる約束をする。
しかし、ドラえもんに未来が変わったかもしれないと言われたのび太がタイムテレビで確認すると、結婚式当日、青年のび太はどこかへ逃げ出してしまっていた。
ドラえもんとのび太は青年のび太を連れ戻し、しずかと結婚させることができるのか、そしておばあちゃんとの約束を果たすことができるのか。
感想
のび太のスピーチにドラえもんが登場しないというところにロボットは人間と同じ立場ではないという意図が出ている気がする。
入れかえロープのくだり、道具に向かって根性論でごり押し、魂の造形が精子に見えることもあわせて噴飯ものである。
なおセワシは全く登場しなくなる。やはり存在が消えてしまったのでは。
色眼鏡を通した感想
前作で語り尽くしたのでほとんど書くことがない。
ので、ここでは時代設定についての矛盾を考察をしておく。
のび太たちの時代は昭和っぽい描写(携帯電話がない。野犬がいる。いかにもな不良がいる等)なのに対して、成長したのび太のいる世界(つまり10年~20年後くらい?)は現実世界の2020年代より発展している。
原作では成長したのび太の時代は昭和後期から平成のような描写に思える。
おそらく山崎貴監督にとって平成という時代は昭和のソウルを失った、描く価値のない時代であって、昭和が続いていれば、車がチューブの中を走っただろうという思いがあるのだろう。
GHOSTBOOK おばけずかん(2022.7)
地方の小学校に通う同級生の一樹、太一、サニーは、町外れの祠で「ある願(がん)」をかけた。その願いを聞きつけたお化けの「図鑑坊」が3人の前に現れ、願いを叶えるために「おばけずかん」を手に入れろと伝える。
古書店で「おばけずかん」を手に入れる一樹たちだが、店を飛び出すと、そこは人間の居ない「お化けの町」だった。
そこで同級生の湊や、一樹たちを追って、お化けの町に来てしまった新米教師の瑤子と合流する。
お化けの街から出るため、そして願いを叶えるためには、3日のうちに「お化け」たちを捕まえなくてはいけない。命をかけても叶えたい3人の願いとは?
感想
これ好き。ジュブナイルの令和アップデート版。
今の小学生への解像度が高い。ジュブナイルの時よりシラけているというか奥手というか。
だからこそ彼らが叶えたい願いのために必死になる姿は応援したくなる。
それに加えて、ジュブナイルの時にはなかった要素として、大人が成長する姿も描かれている。
新米教師の瑤子は成り行きで非常勤の教師になる。そのため、子供との接し方がわからず冒頭で困惑するのだが、お化けの町で一樹たちと触れ合うことで本当の教師になりたいと思うようになる。
ここで提示される教育論は良いものだと思う。
何が正解か決めがたい世界で、大人は子供にどう接すればいいのか、まず子供に敬意をもってあたる。
そして自分の行動で信頼してもらえるように努めるのだ。
ジュブナイルを見ていた子供ももういい大人で子供の一人くらい育ていていい年齢だ。この映画はそんな世代にも向けた映画なのかもしれない。私は子供どころかお相手もいませんが。
それはさておき、大人も子供も楽しめる映画に仕上がっていることは間違いない。
これは山崎貴映画の中で私が一番おすすめしたい映画だ。
色眼鏡を通した感想
おばけという異形が珍しく外国人の象徴ではない。
じゃあ何なのかというと成長を促すために用意された試練、教訓や物語のようなものではないかと思う。
結末では、あの冒険は記憶にすら残らないが現実に影響を与えている。これくらいの感じがいい。
あと、山崎貴作品には珍しく主人公サイドに外国人がいて、ポリコレに配慮したのかと思ったが、観ていくと彼はアメリカ人のハーフで、地元のおばあちゃんたちと仲がよく、他のメンバーより地元にくわしいという一面をもつので、名誉日本人というか、日米修好の象徴みたいなものだ。山崎貴にとっての他文化との共生は向こうが日本に合わせるものだという価値観が表れている。
ゴジラ -1.0 (2023.11)
あらすじ
昭和20年、特攻隊員の敷島浩一は零戦が故障したと大戸島に不時着する。夜、恐竜のような怪物「ゴジラ」が現れ、基地を襲撃。敷島は恐怖で動けず、仲間たちは犠牲に。
戦後、敷島は特攻からもゴジラからも逃げた自分を責め続けながらも、空襲で両親を亡くした大石典子と赤ん坊の明子との共同生活を始める。
敷島は米軍が戦争中に残した機雷の撤去作業の仕事に就き、特設掃海艇・新生丸艇長の秋津淸治、乗組員の水島四郎、元技術士官の野田健治と出会う。
生活にも余裕ができ、敷島は秋津らに典子との正式な結婚を勧められるが、戦争とゴジラによるトラウマを抱える敷島は関係の進展に踏み出せない。
一方ゴジラは核実験で巨大化し、日本に接近。敷島たちはゴジラに抵抗するが、通用せず。政府は混乱し、ゴジラの破壊は拡大。典子も犠牲になってしまう。ゴジラによって東京は壊滅的な被害を受けたが駐留連合国軍はソ連軍を刺激する恐れがあるとして軍事行動を避けていた。そのため、占領下で独自の軍隊を持たない日本は民間人のみでゴジラに立ち向かうこととなる。
典子の死を嘆き苦しむ敷島を、野田はゴジラ打倒のため「海神作戦」に誘う。
敷島は特攻機でゴジラに立ち向かう覚悟を決める。
感想
映像と神木隆之介君の演技がすごい。
戦後すぐの大石典子の薄汚れ具合は『リターナー』のミリを思い出させるし、最後に敷島がつけるゴーグルは『ジュブナイル』、昭和のリアルな風景と人間模様は『三丁目の夕日』と山崎貴映画ファンへのファンサも忘れていないのがうれしい。
あの状況で典子がどうやって助かったのかなどツッコミどころがないわけではないが、この出来の前では些細なことだろう。
色眼鏡を通した感想
これは『永遠の0』のイフストーリーとしての側面があるのではないか。
ゼロからのマイナスワンとはそういうこと。
実際のところ、敷島が特攻を完遂できなかった理由は家族との約束のためであり宮部久蔵と重なるところがある。
永遠の0を見て、なりふりかまわず逃げればいいじゃんと、私のような感想を抱く人間に対して逃げ場をなくすようにこの映画は展開する。
敷島役の龍之介君が憔悴する演技は鬼気迫るものがある。パンフレットによれば鏡に向かって「お前は生きていちゃいけない人間なんだ」と言い続けたり、携帯のホーム画面に「早く死ね」と出るようにして役作りに挑んだらしい。
恐ろしいほどの役者根性だ。クランクアップのときに誰か「おかえり龍之介!」ってやってあげててほしい。
そのおかげもあってか、再び攻めてくるゴジラに、逃げ場などない、戦争は終わっていないと観る人全てが共感するレベルになっているのではないかと思う。
その後はいつもの流れで守るものができた主人公が「勇気」を発揮し敵を倒す。という展開なのだが、今回のゴジラは何の象徴だろう。例の如くゴジラ誕生の理由はさらっと語られ、アメリカの水爆実験の結果生まれたという設定の開示もアメリカ人が良心の呵責を覚えることがない程度であることを鑑みると、核の脅威などではないことは明らかである。
ヒントは史実では日本にいたはずで、こんなことがあれば動き出すはずのGHQや米軍がソ連との関係を恐れて動けないという設定だ。
これは現在の世界情勢とパラレルな関係にあり、山崎貴監督はこの映画を通して今ここにある戦争について語っているように思える。
だからこそ一応は大団円を迎えた映画であるのにエンディングでいつもあるような感動的なエンディングテーマではなくゴジラが近づいてくるような音でこの映画は締め括られる。
我々にとっても戦争は他人事ではないというわけだ。
それに加えて、今までになかった要素もある。似たテーマをもつ『寄生獣』では警察や国家権力への信頼がある程度あったのに対し、この映画では国を見限って市民で解決しようとする。
この変革には、当初は演出メンバーにいたが山崎貴監督が、なぜか勇退することになった東京オリンピックにまつわるいろいろがあったのではないかと思うのだが、実際のところわからない。とにかく言えるのは、国家を見限り、ヴィジランティズムを肯定するという部分がある種の普遍的なメッセージ性を獲得するに至ったということだ。
冒頭にも述べたがこの映画は「国なんてあてにできねぇ!外国の脅威には市民で立ち向かおう!勇気があれば大丈夫!」というメッセージを伝えている。ヤバい。
総評
いかがだっただろうか。暴論もあったかもしれないが、一部はそう考えないと説明がつかない改変などもあったと思う。
この監督をどう捉えるべきだろうか。
映画から伝わってくるメッセージと裏腹に山崎監督自身のふるまいは、いわゆるネトウヨ的ではないように思えるし、ミギーの声優やゴジラをどういう存在として捉えているかなどへの回答もあたりさわりのない内容に終始しているように思える。これは一体どういうことなのか。
これを考えるときに思い浮かぶのが私の好きな映画監督の一人、ジョン・ウォーターズの言葉だ。
世界を変える作品を作りたければアウトサイダーになってはいけない。インサイダーとして振る舞い社会に奇襲攻撃を仕掛けろと。
つまり山崎貴監督は本当に映画で社会を変えようとしていて、あからさまに主義を語ると耳を貸さない層にも届くように振る舞っているということだ。
だが、最後に言っておきたい。私は山崎貴という監督が大好きだ。
私の主義とは合っていないが、映画に傾ける情熱や巧みすぎて恐ろしくなるほどの原作改変、映画で社会を変えられるという狂気じみた映画への信仰。
どうしても嫌いになれない。愛してる。山崎貴。
アカデミー賞視覚効果賞ノミネートおめでとうございます!